パナソニックで働く父・大阪出身の母のもとに生まれる

1995年3月31日、大阪市内の大阪市立総合医療センターにて誕生。

ベタベタの関西弁が飛び交う家庭で生まれ、幼少期は大阪の香里園にあるパナソニックの社宅で過ごしました。
関目に住む祖父母には特に可愛がってもらいました。

父の仕事で3歳からメキシコ

幼少期7年間を過ごす

危険と隣合わせの国でしたが、太陽が照りつけ陽気な国民性のメキシコで暮らしたことは、前向きな性格の形成に繋がりました。

また、日本人であることの誇りが生まれたのは、大の親日国であるメキシコで「日本が憧れ」「日本人を尊敬している」との言葉を多くのメキシコ人にかけてもらったおかげです。

一方で、家を出ると車に歩み寄ってくるストリートチルドレンや、学校に行きたくても行けない家政婦さん等を目にし、社会格差や、公教育の重要性についても子どもながらに考えるようになりました。

小学4年生からはアメリカへ
(ミシガン州・ジョージア州)

アメリカの現地小学校に編入し、強烈な人種差別を経験することに。自身の考えを言えなければその場にいる意味がないという価値観のもとで、言語の壁にぶつかり何度も悔しい思いをしました。

その思いを晴らすためにもピアノや勉学に励み、ピアノは州のコンクールで優勝したことも。

この時の頑張りがあったからこそ、自身の強みである英語力や、成果を貪欲に追い求める姿勢困難な状況でも最後までやりきる責任感を獲得できたため、今では当時の経験に感謝しています。

中学2年生で帰国
「自調自考」の教えを学ぶ

日本に帰国し、帰国子女教育が盛んな渋谷教育学園渋谷中学校(通称:渋渋)に編入。「自調自考」の教育理念のもと、志ある友人たちと共に学びながら、大きく視野が広がる5年間を過ごしました。

国連の会議を模して国際課題について討論する模擬国連や、ハーバード生から学ぶサマースクール等を通じて今後の日本の在り方について考えさせられ、政治に関心を持つようになりました。

自分の強みを突き抜けたものにしたいと考え、東京外大へ

渋渋で「突出した個」の重要性を感じ、自身の強みである英語力を生かして外交や英語教育に取り組みたいと考え東京外国語大学英語科に進学。1年生から積極的にインターンや海外大学との交流事業に参加しました。

特にアメリカ大使館でのインターンや、理事長として高校生の模擬国連全日本大会の運営・ニューヨークの国連本部への派遣事業を行った経験を通じ、世界における日本のプレゼンスをもっと上げたいと強く感じるようになりました。

米国出張にて現地教育関係者との対談の様子。

公共領域に幅広く関与でき、若手も裁量が大きいコンサルティング業界へ

世界における日本のプレゼンスを上げるには、日本経済の底上げが必要だと考え、日本企業の活動を支える公共部門(政府系機関)に対するコンサルティングができる企業に就職。
入社前に期待していたとおり、1年目から主体的に業務を任せていただき、障がい者のインクルーシブ教育救急医療体制の構築国土強靭化のためのシェルターの整備等、幅広いテーマについて海外のカウンターパートとの意見交換を通じた政策立案に従事しました。

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後藤茂之スタートアップ担当大臣(当時)と(株)DeNA会長の南波智子氏との鼎談の様子。

日本の次なる成長領域であるスタートアップ業界をサポートすべくデロイトへ

停滞する日本経済の底上げのためには、日本に成長産業を生み出す必要があると感じるようになり、その起爆剤となりうるスタートアップ業界について学ぶため、10年以上前からスタートアップ業界に特化した事業を行ってきたデロイトトーマツグループの専門部隊へ。
スタートアップの海外展開支援や、国/自治体との協業支援に従事。自ら7か国を訪問し、現地企業や政府関係者との意見交換を実施。2023年には国内外のスタートアップ関係者を東京に集結させた日本最大級のイベントの企画・開催に携わりました。私自身もモデレーターとして登壇した思い出深いイベントです。

転職と同時に自身のキャリアを再考し、本格的に政治家を志す

会社員として働くなかで政治への関心を再確認し、間接的に政策立案をするだけでなく自身が政治家として日本を変革していきたいと決意。

2022年に政府が「スタートアップ5か年計画」を発表したことで、スタートアップ業界の急成長を肌で感じたことも、政治の持つ力を感じてはじめの一歩を踏み出すきっかけとなりました。
幼少期に憧れた「世界に誇れる国日本」を、生まれ故郷である大阪から創っていきます。